大光寺は、創建者が不明ですが、寛永2年(1625)に東福寺の住持、秀甚法印によって再興されました。延宝7年(1679)には、横浜の高野山桜池院から山号「松吟山」と院号「寶樹院」が授けられました。以前は杉山大明神の別当寺でしたが、明治維新の神仏分離令により、杉山神社の別当を退き、薬師仏を迎えました。寺の「黒門」は、金沢六浦藩の旧米倉侯陣屋から移築された辰己南門で、東福寺の赤門と対比される重要な門です。ご本尊には阿弥陀如来を祀り、その立像は約90cmの高さです。横浜三十三観世音霊場の第6番、東国八十八ヵ所霊場の第56番、横浜弘法大師二十一箇所の第9番としても知られ、多くの人々に親しまれています。
そして、大光寺では、奈良の歓喜天根本霊場、大本山生駒山宝山寺から歓喜天尊の分霊を受けてお祀りしています。毎日、お供え物を奉じ、特別な方法で供養を行っています。この供養は、温めた油を尊像に注ぐという極めて秘められた儀式で、一人で静かに行われるため、実際に見ることはできません。歓喜天尊(聖天様)は、大日如来の最後の方便であり、非常に慈悲深い尊格を持つ神様です。その姿は一般の人々が見ることはできず、拝み方も極めて秘伝であるため、修行を重ね習熟された僧侶にのみ伝授されます。そのため、歓喜天尊を祀る僧侶は少なく、修法も極秘とされています。聖天様は商人や水商売の方々、また歴史的な成功者たちに広く信仰されており、特に関西では商売繁盛や学業成就を願う人々にとって非常に重要な神様です。商売繁盛や学業の成功を願う多くの人々にとって、聖天様の信仰は心の支えとなっています。
歓喜天尊のご利益は非常に大きく、歴史的な成功者たちもこの尊に祈願して大成した例が多数あります。商売や事業での成功、学業や立身出世を願う方々にもそのご利益は顕著です。しかし、天部の神仏は感情を持ち、礼儀や誠実な行動を重んじます。お願い事をする際は、必ずお礼をする約束をし、願いが叶った際には速やかに実行することが重要です。
歓喜天様はもともと障害や妨害を行う悪神でしたが、十一面観音様の魅力と説得によって仏教の守護神となり、強力な力で人々の願いを叶え、仏道へ導いています。聖天様の姿は象の頭を持つ男女が抱擁してる姿であり、その背後には多くの伝説と理由があります。
清水ヶ丘には、その歴史と伝統を支えてきた偉大な僧侶、英応上人のお墓があります。英応上人は、相模国足柄下郡飯泉村(現在の小田原市)で生まれ、5歳の時に高野山に上り、仏門に入りました。その後、11年間の修行を経て、仏教の深い教えと精神を学びました。彼は弘法大師の1000年遠忌の奉行を務め、その功績により「今弘法様」「生如来様」として多くの人々から敬愛されました。1844年から大光寺において仏教の教えを広め、地域社会に貢献する活動を行い、多くの人々に影響を与えました。彼の晩年には、「清水ヶ丘の大塚の真ん中に一丈(約3.3メートル)掘ると何かが出る」との遺言を残し、その場所で発見された純金の兜の前立が彼の亡骸と共に埋葬されました。彼の墓所は横浜市街地を一望できる丘の上にあり、傍らに事跡を刻んだ自然石の記念碑が建立され、静かに眠っています。大光寺では英応上人の教えを受け継ぎ、仏教の精神を現代に生かし続けています。
大光寺では、歴史的な山門を見ながら心静かなひとときを過ごすことができます。ぜひお越しになり、歴史と信仰の深い場所での特別な時間をお楽しみください。
【山号】松吟山
【院号】寶樹院
【寺号】大光寺
【宗派】高野山真言宗